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短歌の場合、下の句の「七・七」の並べ方がとても大切である。この部分が「俳句」にはない部分である。えてして蛇足になったり理屈になったりしてしまう。時々、この「七・七」をひっくり返してみることも大切なことである。(安森敏隆)

       『短歌』2月号・短歌クラブ誌上添削教室より抜粋
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2009.02.22 Comment:0 | TrackBack:0
テーマ意識をどの程度くっきり出すのかは、むずかしい匙加減である。連作をあまり意識しすぎると窮屈になる。二首でも同じモチーフの歌があれば、それだけでもテーマは強く意識されるものだ。同じ素材、同じ言葉を単に繰り返しているのでは退屈するだけだろう。たとえ同じ対象であっても、別の見方、別の側面から歌う、あるいは先の一首を発展させた形で歌うなどの工夫は欲しいところ。
特に、一首だけでは背景がわかりにくい対象を歌う時、説明を一首のなかにだけすべて詰め込もうとすると窮屈になってしまうが、何首かに背景的な説明を分散させることによって、一首の立ち上がりが良くなることは間違いない。そんな特質を生かしたい。

           永田和宏/『短歌研究』2月号・短歌研究詠草選後感想
2009.02.06 Comment:0 | TrackBack:0
「短歌を作ろうとすると、心の構えが少し変わるでしょう。
すると、『発見』が向こうからやってくる。
それを大切にして」

       俵 万智/「オーサー・ビジット2008」(12月5日朝日新聞より)
 
2008.12.06 Comment:0 | TrackBack:0
短歌研究2月号「鴨長明『無名抄』名言集」より

一、題の心を得べき事

歌は題の心をよく心得べきなり。
 『無名抄』は冒頭に「歌は題の心をよく心得べきなり」と切り出す。歌合せが専ら、歌の場になってきた当時、歌イコール題詠でもあった。現在、題詠というと、「桜」とか、題の言葉を入れて、あとは自由に詠めばいい。当時は、言葉によるのでなく「忍ぶ戀」といった題が出れば、その心を詠むのである。いかにその心を深く詠むか、が勝負のポイント。共通の趣向を下敷きにしたテーマ制作ともいえる。自由でないことが、むしろ面白いのだ。―花山多佳子―
2008.02.18 Comment:0 | TrackBack:0
短歌研究9月号・短歌研究詠草から高野公彦さんの選後感想の抜粋


決まり文句というものがある。
たとえば、地震で被害を受けた地域が復興工事にとりかかると、「復興の槌音が響き渡る」というような表現をする。新聞やテレビなどは、このような決まり文句を好んで使う。実際はショベルカーが倒壊した家屋を取り壊しているような状態でも、「現場に高らかに響く復興の槌音」などと表現する場合が多い。
決まり文句は、リアリティが稀薄であり、文学から程遠い<死んだ言葉>である。文学の敵と言ってもいい。むろん短歌でも使うべきではない。

    茜より藍に移れる空を背に槌打つ男の棟木に浮かぶ

このあいだ、ある短歌教室でこんな歌に出会った。
この「槌」はなんだろう。金槌とか木槌とか言っていればいいが、何も言っていないから単なる決まり文句みたいな印象を受けてしまう。
リアルさ、というものの追求が足りない歌だと思った。

2007.08.22 Comment:0 | TrackBack:0
野方ノオト(春日真木子)より


俳句は切れ字で言いっ放しでよいが、短歌の場合は、下句七七が叙述、説明になりやすく、同質の言葉の並ぶケースが多い。読む側にとっては、そのほうが分かりやすい。しかし、一つ異質の言葉を入れると、矛盾が生れたり、美が生れたり、不思議な魔力が生れることがある。これが「創る」ということであろう。

 くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽の針やはらかに春雨の降る     正岡 子規

 <針><やはらかに>に、感覚的なパラドックスを含んでいる。針という鋭い尖ったイメージが、やわらかに、とつながるところにこの秀歌の秘密を私は思うのである。
2007.07.30 Comment:0 | TrackBack:0
春日真木子「野方ノオト」より


折角、うつくしい言葉で寂びの情緒ある歌を作ったのに、何故採りあげられないのか----、という人のために、今回は最も基本的なことを書いている。
 北原白秋の『鑕(かなしき)』を読んでいて次のような例があった。わかりやすい例なので挙げてみる。

・雨やみて夕べひそけきさ庭べにほのぼの匂ふ木蓮花かも

 (ひそけきとほのぼのという)同じ幽かな言葉を二つも一首の中に含ませるといふことは、或は今の歌壇の常套的手法でもあろうか。もっと真実に自分の眼をみひらいて独自に観照をするべきである。----略----

 そして白秋は、次のように添削している。
・雨のあと夕あかりあるさ庭べに浮びて白き木蓮の花

 <夕べひそけき>は、<夕あかりある>に、<ほのぼの匂ふ>は、<浮びて白き>と改作されたところに注目したい。
<ひそけき><ほのぼの>は、うつくしい言葉であるが、これを重ねても、作者の淡い気分に終ってしまう。
なぜならば、<ひそけき><ほのぼの>は、読者の眼に見えてこないのである。
言葉は、抽象であり、作者の思いは、言葉にした途端、なんとなく凡庸になってしまうのである。
改作のようにすれば、感覚的に白木蓮そのものの姿が浮彫に、読者の眼に映ってくるのである。凡庸な言葉を組みかえ、組み立てて、感覚的に仕立ててゆくのである。
2007.07.29 Comment:0 | TrackBack:0
(1)正しい日本語を使うこと
(2)歌おうとする内容にふさわしい効果的な言葉を選ぶこと
(3)むだな言葉を省くこと
2007.01.04 Comment:0 | TrackBack:0
「そのままを」      大河原惇行
              (「短歌」平成14年6月号より)          


柿の実のあまきもありぬ柿の実のしぶきもありぬしぶきぞうまき


明治三十三年の正岡子規の歌である。今から百年以上も前の歌で、少し古いということになろうか。それでもこの歌の意味するところは、考えてよいことだ。
ともかく、この歌には、子規の意思などはない。「しぶきぞうまき」と、ただ捉えているだけである。柿好きの子規がそこにあるだけだ。端的に子規という人間が受け止めたことがあるだけなのだ。そこに注意をするのである。


木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇どもの泣き居るところ


この歌はどうであろう。やはり三十二年の子規の歌である。今から見ると、自然に表現されていると言っていい。涅槃絵の歌であるが、わざとらしさが何もない。「象蛇どもの泣き居るところ」の把握がいかにも自然なのである。こう表現するのは、子規と言えども容易ではなかったはずだ。ものに触れてそのままを、そのまま捉える。そのことを思うのだ。
2006.11.13 Comment:0 | TrackBack:0
本歌
「馬を洗はば馬のたましひ冱(さ)ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」(塚本邦雄『感幻楽』)


・ひと恋はばひとを殺むるこころとは風に乱るる夕菅の花(道浦母都子『ゆうすげ』)
2006.08.20 Comment:0 | TrackBack:0
文語・口語に付随してくるのが、それぞれの仮名づかいです。
これには歴史的仮名遣い(主に平安時代中期までの使い方に従っているもの)と、現代仮名遣い(内閣告示によるもの)とに表記法が分かれます。そして使用の際も、文語体なら旧仮名づかいで、口語体なら新仮名づかいとはっきりしているので、原則もなにも混用・誤用は許されません。たとえば「あわれ」と現代仮名づかいで書くものを「あはれ」、「うえ(上)」を「うへ」、「えがお(笑顔)」を「ゑがほ」と書くなどです。
特に旧仮名づかいは、間違ったりしますと直されますので要注意です。


<原作>
愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う   俵万智


<旧仮名>
愛人でいいのとうたふ歌手がゐて言つてくれるぢやないのと思ふ



<原作>
白鳥とくちなは愛しあふこゑを聞きたるのちにみづは滅びむ   水原紫苑


<新仮名>
白鳥とくちなわ愛しあうこえを聞きたるのちにみずは滅びん
2006.06.06 Comment:0 | TrackBack:0
作品を書き言葉で記述するか、話し言葉で書くかの問題です。
実作にあたっては、前もって自分で決めておくべき大切なことです。文語体が現代短歌の主流であるというのは、短歌固有の伝統的な流れでもあります。
ですから用語の基本をどちらに置いて作るのか決めておくことです。ここで、基本と言ったのは、当然のこととして時代の要請で、二つの文体が入り混じって使われている事情もあるからです。


むずかしい時代来たると人は言うかんたんな時代かつてありしか  田中章義


<文語>
むづかしき時代来たると人は言ふかんたんな時代かつてありしか

<口語>
むずかしい時代が来たと人は言うかんたんな時代かってあったか


原作には二通りの言い回しが混在していますので、それぞれに統一してみました。


              (「楽しく始める短歌」田島邦彦著より)

2006.06.06 Comment:0 | TrackBack:0
定型短歌(五七五七七)でも五音と七音の音数からはみ出した歌はあって、破調といわれますが、破調はあくまでも定型を遵守する上での例外的措置ということです。

             (「楽しく始める短歌」田島邦彦著より)
2006.06.05 Comment:0 | TrackBack:0
わが国最古の歌集「万葉集」(782~3年ごろ)が編纂される以前、人々の間で歌い継がれてきたものに歌謡というのがありました。短歌の発生が見られるのは、その記紀歌謡時代の「古事記」(712年)と「日本書紀」(720年)あたりからです。「古事記」の上巻には、須佐之男命(スサノオノミコト)と伝えられる次の歌があります。五音と七音の五句で構成され、これが短歌の起源といわれています。


八雲立つ出雲八重垣妻篭に八重垣作るその八重垣を



              (「楽しく始める短歌」田島邦彦著より)
2006.06.04 Comment:0 | TrackBack:0
短歌は五音と七音の音数を踏まえて詠むのが基本です。
この三十一音の定型のリズムは日本人の体に染みついたものといえます。
この三十一音を三十一拍ということもあります。音数より拍数のほうが分かりやすいからです。たとえば〔三月〕の言葉の発音は〔サ・ン・ガ・ツ〕と切ります。このように言葉のもっとも小さい発音の単位を拍というからです。


1.二音であっても一音に縮めて数えるもの

  拗音(ゃ・ゅ・ょ など小さく書き表すもの)

   ・日本語 〔例〕滅茶苦茶(めちゃくちゃ)四音
   ・外来語 〔例〕マンション(マ・ン・ショ・ン)四音

2.一音に数えるもの

  長音(のばす音) 「ー」  〔例〕コート(コ・ー・ト)三音

  促音(つまる音)「っ(ッ)」〔例〕喫茶店(き・っ・さ・て・ん)五音

  撥音(はねる音)「ん(ン)」〔例〕散歩(さ・ん・ぽ)三音



              (「楽しく始める短歌」田島邦彦著より)
2006.06.04 Comment:0 | TrackBack:0
短歌は五音と七音の組み合わせで成り立っていますので、五音と七音の語句のつながりと区切りによって、意識しなくても、この二つの調子になります。
それは基本単位である五音と七音の繰り返しによる音のリズム(音律ともいう)に支配されているからです。
七語調は、七音に五音が続きますと二つの句は、上の長く重いほうから下の短く軽いほうへと流れて、流麗で軽快な調子となります。
五七調は、五音に七音が続きますので二つの区は、上が短く下が長くなり、のびやかで重厚になります。

                (「楽しく始める短歌」田島邦彦著より)



七五調は初句切れ(五/七五七七)、三句切れ(五七五/七七)

五七調は二句切れ(五七/五七七)、四句切れ(五七五七七)
2006.06.03 Comment:0 | TrackBack:0
私は基本的には、短歌は癒しの文学だと思っている。
事実、私自身歌によって癒され生きて来られたと思うからである。
しかし、今の歌壇の歌は、単に言葉遊びのような、意味のない歌、軽い歌が多いように思える。
言葉をまるでおもちゃのように小手先でころがしている。
こんな歌で心が癒されるのであろうかと、疑問である。

         有本倶子(平成11年3月号『短歌』より)

2006.05.30 Comment:0 | TrackBack:0
「我は思ふ、文芸とは貴族の心を持ちて、平民の道を行ふものなりと。」(「友に寄す」『郷愁』窪田空穂)

空穂は「文芸の名に隠れて、貴族趣味にあこがるる人」を批判しているのであって、教養や審美性や品位を大切に思い、それを貴族の心という言い方で言っている。よく出来ている芸術的技巧や視点を否定しているのではない。
またここで「平易なる言葉をもて語るべきなり」と言っている。これは空穂短歌が、また真にすぐれている短歌が持ちうる、基本的な要因をも語っているであろう。

平易なる言葉は、時として俗に傾く。だが貴族の心、現代風に言えば、一種の気品である。その気品は、時として俗に傾く言葉を、十分カバーできるのである。

         岩田正(平成11年『短歌』1月号より)
2006.05.28 Comment:0 | TrackBack:0
「見たままを言う」でよいのか      
                         尾崎左永子



曇日のすずしき風に睡蓮の黄花ともしびの如く吹かるる(佐藤佐太郎)


この歌の場合「睡蓮の花」という、誰でも見かける自然が題材です。それも黄色い花なのですが、よく読み込んでみると、この花は「つぼみ」なのです。「曇日」ですから、花は咲き切らずに、つぼんだままなのです。それがすずしい風にふかれていくらか傾くように揺れているのでしょう。ひとつでなく、いくつもの、蝋燭の灯のような花のつぼみが吹かれています。曇日の灰色(グレー)と、明るく透明感のある睡蓮の花の淡い黄のつぼみ。その色彩の対照の中から、六月ごろの梅雨曇りの涼しさが快く、しかも的確に伝わってきます。

じつに見事な「切りとり」なのです。すなわち「ともしびの如く吹かるる」という作者の「発見」が、さわやかに切りとられて、読者の前に提示されています。よく見てください。「つぼみ」とも言わず、「池」とも「水の面」とも言わず、花の数も時間も言わずに、しかも「黄花」とだけは、はっきり表現しています。黄花だからこそ「ともしびの如く」なのです。

このように、不必要な「説明」や「叙述」は可能な限り「削り落とす」こと、つまり「表現は限定すること」であり、自らの発見したものを切りとることが、自然詠の最も基本的な姿勢であると、私は思っています。
2005.01.08 Comment:0 | TrackBack:0
「見たままを言う」でよいのか      
                         尾崎左永子


「自然詠」というと、空や雲や樹や水や、あるがままの自然を対象とする作品一般をさして言うようですが、ただあるがままの自然を写すというだけでは、単にあふれた叙景歌になってしまいます。
とくに写生派、写実派といわれる系統の作歌法の中では、写生の基本として「ものを観る眼」を重要視し、「見たままを言う」ことをすすめますが、これは実にたいへん誤解されやすい言い方です。
頭の固い人は、ほんとうに見たままに言えば成功、と思ってしまいかねません。いくらものをていねいに見て、ていねいに説明してみても、その作品が読者の心に性格に伝わるとは限りません。とくに自然詠の場合、誰が作っても同じような、千篇一律、無個性な歌が掃いて捨てるほど出来るだけです。

かつてアララギの土屋文明先生が、「千人が千人、同じような歌を作ってどうなる」とたいそうご機嫌が悪かったという話を聞きましたが、千一番目の歌を作ってみても、何にもなりません。では、自然詠を成功させるためにはどんな心がけが要るのでしょうか。
まず第一に「発見」が必要です。同じ樹木を見ても、単に「木が並んでいる。風が吹いている。秋の色になった。落ち葉が散りはじめた」といった観察では、まだ「自分の眼」による「新しい発見」はありません。事実の観察からはじめることは誤りとはいえませんが、その事実の中から、自らの心にくっと差し込んでくる光のようなもの、今まで気づかなかった「状態」の新しい発見があるとき、まず自然詠の第一歩は成功したといえます。

                         (2)へつづく
2005.01.05 Comment:0 | TrackBack:0
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