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2004年10月23日(土)朝日新聞「ピンホール・コラム」より。
文芸評論家・斎藤美奈子さんの「ハロウィーンの10日前は?」

10月31日が、何の日か、あなたはご存知だろうか。答えを明かせばハロウィーン。お菓子屋さんやお花屋さんの店頭は、もっかこいつにちなんだカボチャのディスプレーでいっぱい。でも、私の勘だと日付まで知っている日本人は1割以下じゃないかと思う。
(中略)
調べてみると、古代ケルトに起源を持つ悪霊を追い出す祭だとか、死者の霊が家に帰る日だとか、万聖節というキリスト教の祭日の前夜祭だとか、いろんなことが書いてある。が、そういわれてもピンとこない。ちょっと見、宗教行事っぽくもあるけれど、日本で発行されているキリスト教のカレンダーの10月31日の欄には特に何も書かれていず、要するにアメリカの民間行事ということらしい。
どうりで、いまいち普及しないわけである。こんなものをわざわざ祝う必然性は日本にはないのである。カボチャのお面をかぶって騒ぐまでもなく、悪霊を追い出すのなら節分で十分。死者の霊が帰ってくる日はお盆だし、仮装願望は七五三や正月の和装で満たされる。クリスマスやバレンタインデー並のイベントに仕立てたい人は、ウソでもいいから何か恋愛がらみのネタを考えないと。


いつものように切りつけてますね、斎藤さん。嫌いじゃないなぁ。斎藤さんの切り口。同じように感じていたりしても、私自身はこんなふうに切りつけられない性質なので、読んでいて快感を感じることさえある。仮装願望が七五三や正月の和装で満たされるかどうかは疑問だけど。
この日の斎藤さんのコラム、実はここまでがネタ振り。皆、ハロウィンに浮き足立っているけど、その10日前が国際反戦デーだって知ってるの?ほんとは、10月21日を盛り立てるべきなんじゃないの?って言いたいんだよね。

ちなみに、私もハロウィンの日付は知りませんでした。毎年、気が付いたら終わってるっていう昼行灯タイプの人間なので。
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2004.10.31 Comment:0 | TrackBack:0
10月30日(土)朝日新聞夕刊「ピンホールコラム」より。
評論家の唐沢俊一さんの「タクシー~人生学校とでもいいたい趣」の文中に、新潟出身のタクシー運転手さんのことが書いてあった。

新潟出身で鯉の養殖をやっていたという運転手さんは、錦鯉の育て方をことこまかに解説してくれた。あの緋色を綺麗に出すだめには、まず最初は濁った泥水の中で育てることが必要なのだという。その泥の成分が、成長した鯉の、あの目の覚めるような美しい模様の素となる。
「人間も同じですね。最初から混じりっけない清潔な環境の中で育てては、将来自分が光り輝くための材料が身に入らないんです」という言葉には、心から感じ入ったものである。新潟の地震で、住民が避難した後に取り残された鯉の養殖池の写真を見たとき、その話を思い出して胸が痛んだ。あの人も、この写真を見ただろうか。

2004.10.30 Comment:0 | TrackBack:0
10月29日(金)朝日新聞掲載・朝日川柳より

「作業服汚さず帰る視察団」(大和郡山市 中淵ふみおさん)


私も子供の頃から思ってました。被災地へ赴くお偉いさんたち、ほんとに「見るだけなんだ~」って。
2004.10.29 Comment:0 | TrackBack:0
飛ぶためには
ぎゅっと身をちぢめて
ぴょんっ!

「苦難」の時って
未来への飛翔のために
身をちぢめている時かもしれないね

10月28日(木)朝日新聞「マサヲとなおこの地球さんぽ道」より
2004.10.28 Comment:0 | TrackBack:0
「ばった跳ぶときどき月へ跳びにけり」  仙田洋子

                  10月22日朝日新聞より

童話の挿絵のよう。ばったが月まで跳べるわけがないけど、一度だけでも跳べたらいいよねぇ。でも、ほんとは跳んでいるのかも知れない。人が知らないだけで。きっと、作者も跳びたいのかな。


同じ作者の句。
「どうしてもしぼむ芙蓉もわたくしも」
「木犀の夜を眠りたく歩きたく」
「太陽の排泄物かくわりんの実」
「菊人形諸肌脱ぎし匂ひかな」


せんだようこ
1962年生まれ。句集「橋のあなたに」「雲は王冠」句文集「仙田洋子集」
2004.10.27 Comment:0 | TrackBack:0
10月24日(日)朝日新聞・ことばの交差点で「立ち上げる」(校閲部・小林勝之)を取り上げていた。

「検討委員会を立ち上げる」。よく使われる表現ですが、言葉の乱れの好例として、しばしばやり玉に挙げられます。自動詞だった「立ち上がる」が他動詞に変化した言葉で、しかも「立ち」の部分が自動詞で「上げる」は他動詞という、ねじれた構造のためです。(「ことばの交差点より)

もともとは「機械やシステムを稼動できる状態にする」という意味で、技術者の現場用語だったのが、インターネットの普及と同時に一般に広まったということらしい。
故金田一春彦先生は、「立ち上げる」について『日本語を反省してみませんか』の中で「耳障りな言葉である」と書いておられた。「単に、設立しました、といえば済むはずである」と。

もともと「立ち上がる」という自動詞の言葉はあった。しかし他動詞としての用法はなく、他動詞として使いたいときは「立ち上がらせる」と言った。「母親が子供の手を取って、立ち上がらせた」というように使ったのである。
「○○上げる」という言葉がほかに例があるかというと、「縫い上げる」「育て上げる」というような言葉を思いつく。いずれも苦労して手間ひまかけた、という意味合いが込められている。
それと同じで「立ち上げる」という言葉には、立つという簡単な意味の言葉を大げさに、偉そうに表現しているような気がしてならない。たかだかパソコンのスイッチを入れて動かしたぐらいで、そんな大げさな言い方をしなくても、と思ってしまう。(「日本語を反省してみませんか」より)


金田一先生によると、日本人は元来、他動詞よりも自動詞を好むクセがあったそうだ。たとえば「お茶が入りました」や「お湯が沸きました」ということ。ひとりでにお湯が沸いたり、お茶が入ったりするわけもないのに。
自分がやったことをいちいち大げさに言い立てない。相手に恩着せがましい言い方は避け、さりげなく言うのがよしとされる。いちいちあれをやった、これをやったと言い立てるのは野暮と思う、日本人の美的観念なのかも知れない。

日本人というのは、元来そうした遠慮深い精神構造の持ち主だったはずである。だから、この「立ち上げる」という言葉を聞くと耳障りな感じがするのかもしれない。今後もこうした言い方が増えるのだろうか、と思うと老人は少しゆううつになる。(「日本語を反省してみませんか」より)


金田一先生のこんな憂慮を知ってか知らずか、「ことばの交差点」はこうしめくくられていた。
近い将来、パソコンの電源が家電のように瞬時に入る時代が来れば、また新たな言葉の用法が加わるのかもしれません。
2004.10.26 Comment:0 | TrackBack:0
10月24日(日)の朝日新聞に掲載されていた「新藤兼人が語る仕事」より

かつて私の郷里のお百姓は、焦らず、絶望せず今日一日を働けば、明日はまた明日の風向きがあると教える諺を言い伝えていました。「ぼつぼついっても田は濁る」と。
米作りでは田が濁るまで待っていないと苗を植えられないのですが、なあに、ぼつぼつ日を過ごせば、そのうち田は濁ってくる。
つまり苦しかったり、うまくいかなかったりしても、やがて目的に達することができるから絶望するな、希望はちゃんと先にあるということですね。





同じ意味の言葉に「そろそろいっても田は濁る」があります。




<補足>
サラリーマンの家で育った私は、田植えの経験どころか実際に田植えを見たこともない。
なぜ、水が濁るまで苗を植えたらいけないのかわからなかったのですが、たんぼの水が濁ると雑草が生えにくくなるということのようですね。また、水が濁るのは、土中の微生物の発生によるものだそうです。
※水田除草方法
http://www.dia.janis.or.jp/~u-yumai/josoudetail.html
2004.10.25 Comment:0 | TrackBack:0
10月24日(日)朝日新聞より「新藤兼人が語る仕事ー4」より

都会の喫茶店などで仕事の話をしていると、次々とできそうな案が浮かんできて、一気に10段も階段を上がったような気になることがありますが、まずそれは実現への夢というだけですね。
石段を10段も飛んで上がることはできないものです。じれったくても辛(つら)くても1段1段いくしかない。一つひとつ形に残し、きちんと積み上げて次へ進む。そうやって確かめながら重ねた仕事だけが自信へと変わっていきます。



仕事に限らず、夢の実現にも同じことが言えるでしょうね。
イチローのようにとんでもないところまで行けなくても、小さな自信を重ねていって、大きな自信につながれば、夢の大部分は実現できそうな気がします。
2004.10.24 Comment:0 | TrackBack:0
朝日新聞「折々のうた」より

体重に余分は持たずかもめどり空飛ぶものは潔くして

        村上章子(あやこ)/『風の城』(平成16年)

この歌を作った人の心理状態を推測すると、結句の五音をどう締めようかと、少し考え込んだのではないだろか。「潔くして」という一語が浮かんだ時、作者は短歌という形式に納得するものがあっただろう。それ以上でもそれ以下でもない一語が見つかった納得の気持ち。定型詩の与える「納得」の気分は「愉快」に直結している・・・(大岡信・評)

飛ぶためには、1グラムでも軽いほうがいい。余分なものは持てない。持たない。
翼がなくても、鳥のように飛べるだろうか。潔くしていれば。
潔く過去を切り離すように。未練を振り切るように。

凛と生きたい。
2004.10.23 Comment:0 | TrackBack:0
「花月夜いのちあるもの揺れやまず」    黛まどか


「花月夜」は春の季語。

相変わらず、まどかさんの句は美しい。
春の夜、月明かりに浮かびあがる花は桜でしょうか。微風に揺れるような、いや、無風の夜も月の光に妖しく揺れる。「春江花月夜」という漢詩の『月、花林を照らせば、皆 霰に似たり』という一文を思い起こす。そして、桜を見上げる人の心も揺れる。春、いのちあるものは、どこか冷静ではいられなくなって浮き足立つ。

10月19日(火)の朝日新聞の「ぴあINFO・PACK」の記事に掲載されていました。記事は、話題の韓国映画「春夏秋冬そして春」の一面広告。
(映画のあらすじ・・・湖上に浮かぶ神秘的な山寺を舞台に、ひとりの男の幼年期から壮年期にわたる魂の遍歴を、春夏秋冬の移ろいに重ね合わせながら情感豊かに描き出す。キム・ギドク監督)

この作品を観て、日本と韓国では人と季節のかかわり合いが違うように感じました。日本は季節と季節の間にのりしろがありますよね。季節が少しずつ移ろい、人は移ろいに身をゆだねながら、そこに寄り添いながら生きている気がするんです。ですが、韓国は一気に変化しますから、寄り添うというよりも季節に否応もなく支配される感じ。この感覚が韓国人の喜怒哀楽のはっきりしたといわれる気質をはぐくむのかなと感じました。(黛まどかさん)
2004.10.21 Comment:0 | TrackBack:0
10月19日(火)朝日新聞朝刊「ポリティカにっぽん」(朝日新聞コラムニスト・早野透)の「所信表明演説のミステリー」を読んでいて、最後のほうに『匹夫の勇』という言葉が出てきた。
あれれっ、言葉の意味がわかんない?というわけで、さっそく調べたので、忘れないようにこここに記しておきます。

「匹夫の勇」・・・思慮分別なく、血気にはやるだけのつまらない勇気。(「孟子」)
2004.10.20 Comment:0 | TrackBack:0
「新藤兼人が語る仕事」(10月17日(日)朝日新聞より)

 私の実家は大きな農家でしたが、父親が知人の連帯保証人になって、すべての財産をなくし家族は離散しました。本来あるべきはずだった家や、家族との暮らしが失われてしまったために、私は今日までずっと、家とは何か、家族とは何か、生きるとは何かを問い続け、答えを探し求めています。
それが私の根っこである、今も、自分の家の小さな窓から懸命に社会を見ようとしている自分を強く感じますね。
 人生をさかのぼって思いだしていくと、必ず今日のあなたを生んだ自分だけの根っこがあります。あなたの感じ方、価値観を作り出しているもの。それを見つければ少々のことではグラグラしなくなります。自分とは何か、まずしっかりとつかむこと。人間はいつもどこかに属したいものですが、私は「自分に属せ」と言いたい。
2004.10.19 Comment:0 | TrackBack:0
18日(土)朝日新聞夕刊で、「ほおおっ!」と興味を引かれたのが「人そっくりに、たら~っ」と見出しの入った科学欄。東洋紡総合研究所が開発した発汗マネキンについての記事。あらまぁ、私ったら○十年以上も生きてきたのに、こんなマネキンがいることを知りませんでした。無知だわ。(マネキンが「いる」という表現もおかしいね)

新型発汗マネキン「SAM」の開発について
「汗をかいても蒸れない」「汗で体を冷やさない」こんな機能を持った衣類を製品化するには、繰り返しテストが必要だ。もちろん人が試着して効果を調べるが、「快適な着心地」を被験者の主観や体調に左右されない数値で測りたい場合もある。そこで発汗マネキンの出番だ。


なるほど。人体実験の場合には、えてして主観的な言葉になりがちだけれども、マネキンの状態を機器で計測したほうが、数値としての信用性が高い。

兄のトムは、人の汗腺にあたる穴が22万個あり、頭のてっぺんから送り込まれた水蒸気によって、じわじわと汗をかくタイプ。日常着や布団のテストに向いている。
弟のサムは、168個の汗腺一つ一つが頭を通るチューブを通して外部のポンプとつながっている。人が心臓の動きに連動して汗をかくように、ポンプは10秒間に1回水流を押し出し、サムは大汗をかくように作られている。スポーツウエアや作業着のテスト向け。

トムもサムも胸部、背中、手足などにセンサーがあり、汗の蒸発につれて変わる温度や湿度を計測できる。自由に体温が設定できるうえ、サムには放熱量を測る機能もついた。汗の蒸発で体から熱をより多く奪えれば、夏でも快適な着心地になる。

開発担当者は、次は「次は自分で走って汗をかく」マネキンの開発を考えているそうだ。インドア派のトムと、アウトドア派のサムの兄弟は、どんなタイプの子だろうか。クール&セクシーなんていかが?

トム:1989年完成
サム:2003年完成
2004.10.18 Comment:0 | TrackBack:0
「人がみな 同じ方角に向いて行く。それを横より見てゐる心」 石川啄木


27歳のとき肺結核で死んだ石川啄木(1886~1912)は、我侭で生意気で嘘つきで泣き虫で、貧乏を売り物にして借金ばかりしていたと後世に不名誉を残している。つまり自己中の最上級ってとこかな。
それでも、後世、こんなに愛唱される短歌を作った人はいないと思う。「働けど働けど なお我暮らし楽にならざり じっと手を見る」は、たくさんの人が知っているだろう。

「折々のうた」選者大岡信さんは、この歌に見える啄木の反骨精神に注目している。
2004.10.17 Comment:0 | TrackBack:0
生きおればわれより善き事成しとげん君は世を去り無為に日の過ぐ(海老名市・吉田健夫)




に度と帰らない人。やりきれない思い。耐えるしかない日々。
2004.10.17 Comment:0 | TrackBack:0
10月15日(金)朝日新聞「声」欄より
「接客ランクを客に表示とは」(横浜市・田中敏雄さんの投稿)
日本郵政公社が新たに「接遇認定制度」を導入して、郵便局窓口や郵便配達を担当する職員22万人について、接客態度を評価して1~4級の等級にランク付けをするという。職員はその等級を示すバッジをつけて顧客からも接客ランクが人目で分かるようにする方針だという記(5日)を見てあぜんとした。(中略)
官僚的な対応を一掃しようとするのが狙いだというが、私にはこういう発想こそが官僚的で、これでは民営化しても効果がないのでは疑問に思う。


9月末ごろだったか、郵便小包を配達してくれた職員さんが「アンケートをお願いします」と、自分の判を押したハガキを差し出された。それには、配達員の服装はちゃんとしていたか(髭は剃っていたか、というのもあったような?)、言葉遣いは良かったか、などとのいくつかの質問があった。「ついでの時に、ポストに投函していただければいいですので」といわれたので、「わかりました」と受け取ってそのままにしておいた。何のためのアンケートなのかわからなかったから。
テレビでこの「接遇認定制度」のニュースを見て、ああ、そういえば、と思い出し「やりすぎじゃないの?」と思った。こういう制度を考える自体、いかに官僚的な態度の郵便局員が多かったということだろう。
郵便局窓口にありがちな横柄な態度には、私も辟易していたクチだけど。徹底的な研修を受けたデパートの販売員のような接客までは利用客は望んではいないと思う。相手を人間らしく扱うこと、つまり思いやり。ホスピタリティの精神があればいいのだ。
投稿者の田中さんが最後に書いておられたけれど、この制度に賛成した管理職も評価の対象になられるのでしょうか。いや、率先してなってほしいと思う。上の人の振る舞いが、下で働く人達には反映されているはずなのだから。

その後、アンケートは投函しましたよ。「大げさな営業スマイルを望みません。当たり前の接客態度で、必要なことをきちんとしてください。」と書きそえて。
2004.10.16 Comment:0 | TrackBack:0
「平和とは、どこかで進行している戦争を知らずにいられる、つかの間の優雅な無知だ」
エドナ・セントビンセント・ミレー(詩人/アメリカ)


10月14日(木)朝日新聞「日々の非常口」(アーサー・ビナードさん)より
先々週、初めてベトナムを訪ねた。統一会堂から戦争証跡博物館や、歴史博物館へとホーチミン市内を歩きながら、前々から知っていた戦争の数字が、少しリアリティを帯びてきた。戦死した5万8千人あまりの米兵の犠牲の重さは、アメリカにいるときでも感じられる。しかし、分かったつもりでいても、300万人のベトナム人が殺されたという事実の重さには、これまでちゃんと向き合ってこなかったことに気づいた。
(中略)
ホーチミンへ帰る車の中で、ガイドのフィさんがこういった。「平和は、戦争をしたがる人の準備のための時間」
ホテルの部屋でテレビを点けてみると、米大統領選の候補の討論会が始まったばかりだった。イラク戦争が繰り返し何度も話題に上り、千人を超えた米軍側の犠牲者が天秤にかけられた。が、米軍に万単位で殺されているイラクの市民は、取り上げられることはなかった。

2004.10.14 Comment:0 | TrackBack:0
2004年10月13日(月)朝日新聞[かながわ見聞録 バーリット・セービン] より

スピーカーの声 場所選ばぬ

春、横浜市中区の山手公園でテニスの試合を見ていると、いきなり、犬の飼い主にフンを始末するように注意する放送がスピーカーから流れた。女性の声だった。
   私は日本人が放送好きだということを改めて感じ、3、4年前のことを思い出した。それは、埼玉県川越市にある喜多院で枯れ葉の散った庭を観賞しようと思って縁側に腰を下ろした時のことだった。スピーカーから寺の歴史が繰り返し放送された。私はその場の雰囲気を楽しむことが出来ず、間もなく寺を立ち去った。



これを読んで、そういえば、さだまさしさんもどこかの観光地へ行ったとき、スピーカーから大音量で歌謡曲が流されていて興ざめしたとコンサートで話されていたなぁと思い出しました。(実際は、坂元昭二さんから聞いたことだったとか?)
日本人が放送好きという断定はできないけれど、気をまわしすぎてお膳立てが過ぎるのかなぁと思います。はきちがえたサービス精神ともいえるでしょうか。ぶっちゃけ、お節介!?
お寺などは特にそうですが、自然の中にいるとき、人工の音は必要ないと思います。風に葉がそよぐ音、寄せ返す波の音、鳥の鳴き声、力強い羽ばたき、土を踏みしめて歩く自分の足音、花が散り落ちるときのかすかな音、そういうものを聞き逃したくない。静寂が欲しい。
観光地に静寂を求めるのはいささか無理なのかも知れませんが、冬の雨の日の京都・大沢の池はひと気がまったくなくて、孤独におぼれそうになるぐらい静まりかえっていますよ。まあ、冬の雨の日にこんなところに行くのは、よほどの物好きと言われてしまうでしょうかねぇ。
2004.10.13 Comment:0 | TrackBack:0
10月10日(日)朝日新聞「新聞週間特集」の中で見つけた言葉。朝刊1面の下にある本の広告欄のこと。縦が記事3段分あって横に8分割されているから、そう呼ばれているそうだ。
この1面の下には出版物の広告しか載らないそうである。しかも「サンヤツ」に絵や写真は使えない。文字のみ。これは1面の広告に品位と統一感を求めた結果だそうだが、文字の種類も明朝体とゴシック体だけで大きさにも制限があるという。
(出版物の)内容が硬めのものは右、やわらかい内容のものは左という並びの基本があり、そしてまた、出版社によって希望に基づいた定位置もあるとか。朝日新聞では、ということなのかも知れないが、岩波書店は右端、みすず書房は右から2番目、角川書店3番目、新潮社4番目、早川書房は5番目、講談社、小学館は左端という具合に。
数日分の朝刊を並べて見て、なるほどと思う。ちなみに、雑誌の広告は6分割なので「サンムツ」と呼ばれるそうだ。


ところで、新聞にツアー旅行の広告がやけに多くなったときには、大きなスポンサーが取れなくて新聞社の懐具合が厳しくなっている現われだと聞いたことがあるけれど本当かな?
2004.10.10 Comment:0 | TrackBack:0
栗一つ拾ひ楽しくなりにけり(兵庫県・延原河童)
2004.10.05 Comment:0 | TrackBack:0
休日のみ顔合わす子よ日曜の夜の「おやすみ」は「さよなら」に似る(和泉市・長尾幹也)


台風であまた落ちたる柿の実は柿の根もとに戻されてあり(岡山県・杉原のぶえ)


潜めたる息を一気に吐くごとしテレビを消せば百合の香放つ(安中市・五十嵐和子)



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1首目:働き盛りのお父さん。朝は子供が寝ているうちに出社して、深夜に帰宅する平日。

2首目:落ちた描きの実を拾い集めたのは、子供たちだろうか。そんな想像をさせる歌。

3首目:テレビを消した深夜。静寂の中で、はっと気づく百合の香り。
2004.10.05 Comment:0 | TrackBack:0
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