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じんましんの薬をもらいに出かける。前回がかなり眠気を催す薬だったので、ちょっと弱いほうの薬に代えてもらった。症状が治まるまで飲み続けることになりそうだ。原因はわからないが、案外ハウスダストかもしれない。いま、飼い猫たちは抜け毛の季節で、家中にふわふわ落ちているし。梅雨入りのまえに大掃除もしなければ。


大江健三郎さんの独特な文体は、わたしには読解が困難だ。それでも新聞等で見かけたら、なるべく読むようにしている。その文体に馴染めば、いつかは読み進められるかもしれないと思うからだ。
19日の朝日新聞の大江さんのエッセイは、上野の「阿修羅像展」のことが書かれていた。大江さんが阿修羅像を鑑賞したときの様子が詳しく描写され、わたしも阿修羅像を見に行った日のことを思い出し「そうそう、そうなのよ!」と膝を打ったほどだ。阿修羅像や十大弟子像を見たときの、あの感動をどういうふうに書いたらよいだろうかと思案していたが、さすが大作家の筆のすさびは見事で、その時いかに大江さんが阿修羅像に魅せられたかを立証しているのだった。


5月19日朝日新聞より「定義集」/大江健三郎
~「異化」された未知の側面~
(前略)まず幾らか高い所から像を見わたす。自由にその全体を見たのはこの時までで、人々のゆるやかな圧力を四方から受けつつ進む。真っ直ぐ頭を立ててはいられないので、水泳で息をつぐように時々像の頭部を見上げ、またうつむいて、踏み場を見さだめながら足を出す。それでも(あるいはそれゆえに)見上げるたびに変容する(とも言いたい)像の顔かたちの、微妙かつ確実な、新しい現れにうたれました。
 私が若い時からもっとも影響を受けた文学理論は、ロシア・フォルマリズムですが、なかでも「異化」という小説の手法は、よく知っている・見慣れている対象を、その新奇な様相を洗い出すように表現し、めずらしいものとして受容させるというものです。
 人ごみの頭のなかに見た、一瞬の(一側面の)阿修羅像の頭部は、それだけで美しい。しかし自分の足許を見おろすことでバランスをとりながら移動し、次の一瞬見上げるものには、さきのイメージの残像こそただよっているけれど、そこからも「異化」された、未知の側面が突き出されているような。それも新鮮に、深まり、総合化された相貌が・・・・・・。そういう技法。
 わたしは合わされた二つの掌の柔らかく整った指、二つの掌の間に正面から見えるわずかな間隙、それらに吸いこまれるようでした。その上で、半歩ほど歩いて、もう一度見上げた真正面の顔の、繊細な若者輪郭だったものが、ずっしりした安定感を示すのに、自分の全体が受けとめられるようにすら感じたものです。(後略)
2009.05.23 Comment:2 | TrackBack:0
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